kobutane1129’s diary

twitter : @kobutane1129

「ユーリ!!! on ICE」について。それはいけないことなんかじゃないんだ。

ユーリ!!! on ICE は、「普通ではないことを、誰もおかしいとは思わない世界」を描いている。

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クリストフ・ジャコメッティは、お色気ダダ漏れお尻むちむちのキャラクター。でも彼はスイス人。スイスは堅物で几帳面なお国柄。
逆に、ミケーレ・クリスピーノはイタリア人なのに硬派で、一度も彼女がいないらしい。
チェコ人のエミル・ネコラは、ヒゲで丸い目の明るく人懐こいキャラクター。でもチェコ人といえば几帳面でシャイなのだそうだ。

このキャラクターなら何々人、という作り方をしていない。

韓国人のイ・スンギルは、ファッションに疎いという設定がついている。彼がエレベーター前で着ていた犬のセーターは、韓国のポップなブランドが出している動物愛護をテーマにしたシリーズで、もしかするとファンからのプレゼントかもしれない。
彼がそれを着るのはごく普通のこと。例えば日本人のキャラクターが、動物保護をテーマにした鯨のセーターを着るくらいに。

レオ・デ・ラ・イグレシアについては、#yurioniceをたどって印象的なツィートに出会った。
彼の絵を貼って、「アメリカ代表がヒスパニックだなんて!」という意味の英語のあとに、ハートと泣き笑いのマークが連なっていた。
私はヒスパニックがアメリカでどんな立場にあるのか知らない。でも、この人が喜びのあまり叫んでしまうのだということは分かる。

大人しいと描かれがちなカナダ人は、JJことジャン・ジャック・ルロアの自己主張の強さを歓迎していたそうだ。
https://twitter.com/zousayu/status/805360517539766272
少数派のフランス系カナダ人なのも、当事者から見たら何か感じるものがあるのだろうか?

あの国ならこうでしょう?という、イメージを、あえて崩してくる。

そうじゃない人もいるかもよ?と。
そうじゃなくて、何か問題ある?と。


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衣装デザインのチャコットの、デザイン意図についての記事。
「監督からのリクエストは、男性である勇利が女性を演じるプログラム。女性目線で滑るので、衣裳の中に女性と男性の要素両方を入れて欲しいというものだった」「スピンのときの効果を狙って斜め切り替えにスカートのようなフリル」
http://www.chacott-jp.com/j/topics/detail3831

ポポーヴィッチのフリースケーティングの衣装もまた、「半分が女性、半分が男性という設定」。
http://www.chacott-jp.com/j/topics/detail3882

曲名は、テイルズ・オブ・スリーピング・プリンス。
バレエ「眠りの森の美女」を「王子」に変えたタイトル。王子を目覚めさせるキスは、「王子と姫、両方の要素」を持つ存在によってもたらされる。
ショートの「カラボス」は、現実世界においても、女性ダンサー、男性ダンサーともに演じる役柄だ。

タイのピチット・チュラノンが躍った「Shall we skate?」は、「Shall we dance?」をもじった架空の人気映画の音楽。
ここでも、実在の映画「王様と私」の、イギリス人家庭教師を、女性から男性に変えている。


選手たちのキャラクターが、国民性をあえて否定して作られているように。あるいはあらかじめキャラクターを作り、その属する国を、普通のイメージと異なる場所に置くように。
男性の衣装を、あえて女性的に描く。女性の物語を男性に置き換える。

そこには、明確な意思がある。

 

ユーリ!!! on ICE の世界は、ヴィクトル・ニキフォロフを基底としている。

主人公勇利は、ヴィクトルに憧れ、ヴィクトルと同じリンクに立つためにスケート人生を歩んできた。
勇利と、もう一人のユーリは、ヴィクトルの衣装を借り、ヴィクトルの振り付けで、「愛について」を踊る。
クリストフ・ジャコメッティはヴィクトルがいないとモチベーションが上がらず、ギオルギー・ポポーヴィッチはヴィクトルに無いものから己のプログラムを作り、ピチット・チュラノンはヴィクトルの4回転を見て練習し、ジャン・ジャック・ルロアはヴィクトルに勝つためにプログラムを組んだ。

誰もがヴィクトルを意識する。

若いころのヴィクトルは、中性的イメージのために、わざわざ髪を伸ばしていた。
そして、若いころのヴィクトルのモデルの一人は、明確に、ジョニー・ウィアーだ。

ジョニーもまた、中性的な魅力のプログラムを組んだ。
YOI世界の基準点である、ヴィクトル・ニキフォロフは、ジョニー・ウィアーへの敬意に満ちている。
その意味が何なのか、は、私の言葉では書けない。言葉に定義しきれない、その外にある感情を、抱く人がきっといるだろうから。

私は、ユーリ!!! on ICE の文脈の中で出会った、この論文に感じるものがあった。

フィギュアスケート男子シングルにみるジェンダークロッシング
―21 世紀初頭のオリンピックにおけるパフォーマンスから―
相原夕佳 日本大学大学院総合社会情報研究科 2015
http://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf16/16-113-124-Aihara.pdf

男性らしさ、女性らしさ、健全なスポーツマン、フリルやビーズで飾られた服。
それらの、いつの間にか私たちを束縛している約束事を壊し、本来あるべき状態に近づけるのは、主張の強いパフォーマンスではなく、「観る者に美的感動を与え、美の形態として承認されるプロセス」だ。

 

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ユーリ!!! on ICE は、キャラクターの一人ひとりに、とても愛情をこめて描いている。
たった何分かの出番と数個のセリフで終わるキャラクターでさえ、人生を与える。その人ならではのプログラムをすべり、視聴者に温かな印象を残す。誰もかれも好きにならずにいられない。

けれどただ一人、人生も存在も描かれないキャラクターがいる。
「音大生の子」
名前が無いどころか、顔さえ描かれない。
あの美しい音楽を、勇利に贈った女性が。

「僕のスケート人生そのもの」を作曲した彼女は、おそらく主人公を最も理解している女性だ。だから彼女が登場したら、視聴者は、あの子が勇利がくっつくのか、と思うだろう。
それが「普通」で「当然」で「あるべき姿」だから。

彼女は主人公において最も重要な異性だ。だからYOIが描こうとする世界を、壊す可能性がある。
ゆえに彼女には顔も人生も与えられなかった。


ユーリ!!! on ICEが描こうとしているもの。
それは、「普通ではないことの、何がいけないというのか」
だと、私は思っている。


原作者のひとり、久保ミツロウは言う。「恋愛はみんなが描いているから、私はそれはいいかな、と。」
彼女は少女漫画誌でデビューした。
少女漫画には、主人公が少女で恋愛要素が多め、という約束事がある。
もっと恋を入れないと。女性なら恋が描けるでしょう?女性はみんな恋が好きなんですから。

でも、本当はそうじゃない。そういう人もいるけれど、そうじゃない人もいる。私たちはそれを知っている。
久保はペンネームを変え、少年漫画誌に籍を移し、そうして才能を開花した。


ユーリ!!! on ICE はフィギュアスケートを通して「愛」を描いている。
それは同性愛を含み、それよりもっと広いもの。

YOI5話、中四国九州選手権大会を終えたあと。
主人公の勝生勇利はマイクを持ち、「愛、のようなもの」について語る。
クレジットが被り、視聴者は驚きをもって身を乗り出し、画面を注視する。エンディング曲のカットは、ここは製作がどうしても描きたい場面だ、というメッセージだ。
通常は終盤に入る「主題の提示」。
それが、これほど早く来るだなんて。

5話については、こちらが語っているとおりで、
『ユーリ!!!onICE』と「愛の再定義」小夜倉庫
http://mortal-morgue.hatenablog.com/entry/2016/11/17/205149

7話のキスシーンについては、こちらにあるとおりだと思う。
「ユーリ!!!onICEはBLか?」inato備忘録
http://illumination1710.hatenablog.com/entry/2016/11/18/113920

 

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ユーリ!!! on ICE の感想に、BL臭が無ければもっと良いのに、という意見をみかける。
BL臭が無ければ、という人は、BLを知っている人。それを不快なものとして受け止める感性のアンテナを持つ人だ。
実際、私が最初にがYOIを観たときは、あれをBLとして感知しなかった。アーティストにはああいう人いるよね、とか、アニメだからな、というくらいの。

感性のアンテナを持つ。それは悪いことではない。
けれど、ボーイズラブ的演出を不快に感じます、と、わざわざ感想サイトのコメントに発信するのは、BLが嫌いだからというより、それを「いけないこと」と思っているからではないか?
そんなことを見せていいの?嫌な気持ちになる人もいるんじゃないの?という自制心が、不快感として認識されるのではないだろうか。

それが「いけないこと」だという意識が無ければ、多少の違和感があったとしても、まあそういうものだ、と流す。
たとえば美術作品としてのヌードのように。
たとえば「ドラえもん」における、しずかちゃんの入浴場面のように。

国民的アニメ「ドラえもん」では、主人公のび太がマドンナしずかちゃんの風呂をのぞいて、真っ赤になって身悶える場面が頻繁にある。コメディチックで、主人公のダメさに共感してしまう場面だ。

では、10歳の少女の入浴場面を、子供向けテレビアニメで流すことは、許されるのか?
逆に、のび太がしずかちゃんの風呂をのぞいて真っ赤になって身悶えることは、いけないことなのか?

ボーイズラブは、いけないことなのか?


ボーイズラブには禁忌と背徳の匂いがある。
男同士なのに好きになってしまうだなんて。世間に知れたら大変なことになる。けれどこの思いは止まらない。
「いけないことなのに止められない」
恥ずかしい。隠さなければいけない。何で好きになってしまったんだろう。でも、好きという気持ちを否定したくない。

この禁忌と背徳は、ボーイズラブを読む私自身への言葉でもある。フィクションから一歩こちらに出てくると、生々しくて直視し辛いけれども。

改めて、ユーリ!!! on ICE はBLか?
禁忌と背徳の匂うエロティシズム、という意味においては、ヴィクトルと勇利の関係は、ボーイズラブでは「ない」。
「いけないこと」ではないからだ。

ユーリを観はじめた頃、友人は言った。
「同性愛が法律違反の国もあるのに、大丈夫かな?」
ヴィクトルと勇利のキスシーンを過ぎた8話では、こんな感想をみかけた。
「良かった。ユーリの世界では同性愛もOKなんだ」

ユーリはロシアでも人気だそうだ。ロシアは同性愛に厳しい国だが「このアニメで見方を変えつつある人も出始めた。」「「北風と太陽」みたいな話ですが、叩いている彼らの様に全否定や声高な強硬主張だけでは、何も変わらないのです。」
https://twitter.com/hitononaka/status/816678928425385984


第9話、ロシア大会フリースケーティング。もしも、「教え子より犬のほうが大切なんだってさ」という台詞があったなら、主人公の悲劇性は高まり、物語はもっと盛り上がっただろう。
けれど誰も、そんなことは言わない。
スケート界の帝王があんな日本人のために、と敵意の視線を投げる人はいない。キャラクターにも、名もない背景の人々にも。
YOIの世界は、優しさと敬意に包まれている。
他国の選手の応援バナーをあげ、誰もが競技の成功を祈り、失敗にため息はついても拍手は止まない。
お互いを認め合う世界。


YOIの世界でも、異性愛が普通だ。ヴィクトルは勇利に好きになった女の子を尋ね、優子は西郡と結婚し、ポポーヴィッチは女性に振られる。
長谷津の海岸で、ヴィクトルは勇利に、どんな存在でいてほしい?と聞き、どれも生返事の勇利に「恋人かぁ。頑張ってみるか」と言う。勇利は驚いて飛び上がる。
しかし、「僕、男だよ?」とは言わない。
商業BLでさえ、今なお、同性であることを恋愛の障壁として描くことが多い。
けれど、YOIは違う。


ヴィクトルと勇利は本当にキスをしていたのか、と考える人たちがいる。
コーチと選手は恋人より深い絆で結ばれているものだよ。
ロシア人は家族のような関係ならマウストゥマウスのキスもするんでしょう?

私もずっと、7話の終幕を「キスにも見える場面」と呼んでいた。キスシーンと呼ぶことははばかられた。
だってキスじゃないのにキスと呼んだら、キャラクターにも作り手の方々にも失礼でしょう?

では、キスなのに、キスにも見える、と言うのは失礼じゃないのだろうか。
恋愛なのに、恋愛にごく近い親密な関係、と曖昧にぼかすことは、失礼じゃないのだろうか。本当はそこにあるものを覆い隠してはいないだろうか。まるで「いけないもの」のように。


テレビ朝日は、フィギュアスケートのグランプリ戦を放映しており、アニメとも連動キャンペーンを行った。
海外選手らにもアニメのグッズをプレゼントし、公式ツィッターに写真を上げていた。
それは、私の常識では、恥ずかしいことだ。
リアルにフィクションを混ぜるだなんて。男性の裸やキスシーンまがいが描かれるアニメの、海外配信で「SYONEN-AI」のタグをつけられるような作品のグッズを、アスリートに渡すだなんて。
それはいけないことなんじゃないのか、と心配になる。

けれど、YOIは、そのような、常識の境界を超えることを描いている。
ふつうでないことの、何がおかしいというのか。
それは「いけないこと」なんかじゃないでしょう?

大手メディアの行動。そこには、この作品は恥ずかしいものではない、登場人物の関係性は「いけないこと」ではない、という意思がある。

 

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ユーリが放映されると、ニコニコ動画やツィッターでよく、「Pixivで見た」というコメントを見かけた。
そして「公式がやる前に上げとく!」と、登場人物たちの恋愛模様を描いたイラストが競争のようにアップされた。

二次創作の多くは、こうだったらいいのに、という願望を形にしている。
私の好きなこのキャラとこのキャラが、もっと親密な、特別な間柄だったらいいのに。

こうだったらいいのに、という願望は、まあ無理だよね、という諦めだ。
公式はこんなことはやらない。それにたぶん、やっちゃいけないんだよ。

それを公式がやる。
ファンの想像以上のものが放映される。
10話。「僕の親友が結婚したよー!」
ツィッターが歓喜で爆発し、萌えころがり、脳みそがはじけたみたいに、身体を覆っていた見えない殻が吹き飛んだみたいに、うれしくて、うかれて、幸せになった。
これは「いけないこと」じゃないんだ。
私が、ほんとうは求めていたものは、否定しなくていいんだ。


「普通ではないことの、何がいけないというのか」
異性愛という普通がある中で、勇利とヴィクトルの関係性も丸ごと認める。
その時、私は、私の中の、いけないことを好きになってしまう自分、あるべき姿のようにはどうしてもなれない自分、が、認められたような気がした。

女らしいほうがいいし、男らしいほうがいいし、スイス人は堅物でイタリア人は陽気で、BLは恥ずかしくていけないこと。
その「普通」や「当然」は、今も私の中にある。
でもそれは絶対ではなくて、その外側にも、明るい、輝かしい、承認される世界があるんだ。

製作陣の、山本監督の、多大な情熱とむき出しの趣味とぶっ飛んだ愛とプロフェッショナルの意地。
それらが境界線を溶かし、私を自由にしてくれた。


だから私はユーリ!!! on ICE が大好きになった。